【本まとめ / 感想】バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ(鶴見良行)
1982年に出版された名著。
今や身近なバナナのルポタージュ。見えてくる真実とは?
この記事の目次
印象に残った部分を抜粋
バナナと日本の歴史
バナナが大衆の日常的な食品となったのは、実は、日本市場向けの専用農園が、フィリピン南部のミンダナオ島に開発されたから。開発が始まったのは1960年代末だから、まだ13,4年しかたっていない。それ以前の日本は、台湾や、エクアドルその他の中南米諸国からバナナを輸入していた。
商品としてのバナナが日本に最初にやってきたのは明治36年。日露戦争の前年。
日本向けバナナの主要生産地は、台湾の高雄州だった。
夜店のバナナのたたき売りも、大正の末期に始まる
戦後になって、1950年から「台湾バナナの黄金時代」が始まる。台湾バナナは、のちに中南米から来た「キャベンディッシュ」などとちがって、地場バナナの「仙人」という品種である。
60年代にはまた、輸出商品としてのバナナが、中南米で「グロスミッチェル種」から「キャベンディッシュ種」へと転換されたときにあたる。
キャベンディッシュの大きな利点は、病虫害に強かった
1968年に輸出を開始し、70年に日本市場の6.5%を占めいているに過ぎなかったフィリピンバナナは、81年には、なんと市場の91%を席巻するに至る。
ブランド名 / 外資企業 / 日本市場の占有率
ドール / ドール社 / 31%
デルモンテ / デルモンテ社 / 28%
チキータ / ユナイテッド・ブランズ社 / 18%
バナンボ / 住友商事 / 9%
バナナ農園と労働者について
先に出た葉から枯れていき、最期の葉が4,5枚になったとき、長い筆の穂先のような蕾が出る。その形状から、フィリピン人は「バナナハート」と呼ぶ。
直立した蕾は、すぐに頭をたれて、赤紫色の皮が開き、その付け根に小指ほどのバナナの花が2列に姿をあらわす。弓状のバナナの実は、最初は下を向いているが、やがて一本の茎を中心に上を向く。完全に開花結実するのに2週間ほどかかるが、このとき、風や虫害から保護するために、全房ごとにビニールの袋がけをする。農園労働者たちは、これを「バナナ・コンドーム」と呼ぶ。
収穫は男2人、1組で行う。一人が幹をボロで切り倒し、他方がクッションをかけた肩で果実を受け止める。
バナナはきわめて厄介な労働集約型作物である。
バナナだって、同じところで栽培をつづければ、いくら有機、無機の肥料を加えても、やはり土地は荒れるのである。台湾のバナナ栽培について、すでに明末 – 清初の書物には、土地の疲弊を防ぐために、サトウキビとバナナが輸作されていることが書かれている。
カートン・ハウス=農薬の段ボールで作った小屋に住んでいる。雨が降るごとに建て直す。だからいつも新築。
日本の私たちが果物の傷みに敏感で黒いしみのないバナナを好むというので、箱詰め作業や輸送はきわめて慎重に行われる。箱詰め労働の多くは若い女たちだが、傷をつけるといけないので爪を短く切らされている。
バナナ農園の女子労働者の寄宿舎を訪れた。わずか一畳ほどの階段ベッドが、彼女らの住まい。貧困線より低い月給300ペソの彼女たち。2ペソ、3ペソを投じてコーラやペディキュア紅を買うのが精いっぱいの楽しみなのだ。
1975年の時点でみると、ミンダナオの労働人口は287万人だが、その81%は農民。
26の地場農園が、1億3960万ペソの収入をあげた。外資企業4社の得た利潤は、2億9300万ペソ。これに対して、当時のバナナ農園労働者2万5000人の得た賃金総額は、3600万ペソ、一人の月収は119ペソ(約3570円)。利益がどこに流れたかは、おのずと明らか
デルモンテ系の農園には影武者ならぬ「影の労働者(カビット)」という残酷な制度がある。2人1組になっていて、一人、つまり表の労働者だけが会社に登録し、一人分の賃金をもらい、それを「影の労働者」とわかちあう。農園の垣根の外に膨大な失業者の群れが待ち構えていなければ、とうてい成立しえない奇妙な制度がまかり通っている。
農園をいくつか訪れて私が受けた印象は「日本にある米軍基地に似ているな」だった。有刺鉄線のフェンスで囲まれ、ゲートにはライフルを持ったガード。借金で2重、3重に労働者と農家を縛る仕組みがバナナ栽培を取り巻いていた。
バナナ農園労働者にもっとも多い病気は、風邪から肺結核にいたる呼吸器系のもの。その次に多いのがアレルギー性疾患と皮膚炎。ともに農薬と関係がありそう。
バナナの輸入と流通
ミンダナオから東京、横浜、大阪など日本の各港に着くまでには、ほぼ5日かかる。
フィリピン産バナナの輸入・流通の組織が日本で整備されたのは、1969年- 70年のこと。
日本に着いて、港の保税倉庫で半日ほど殺虫のための燻蒸を受けたバナナは、早ければ翌日にも、輸入問屋集団の手を経て、加工・配荷業者に渡る。
加工・配荷業者の第一の仕事は、バナナの色付け。むろ(追熟室)と呼ばれる部屋で暖めたり冷やしたりして5日ほどかかる。
私はこれまでフィリピンには20回以上も行ったが、「親の代からのバナナ屋」を自称する横浜の「水信」の社長の話を聞いてびっくりした。「地場バナナのラカタン種をフィリピン人が食べるときだって、完熟一歩手前で獲って1日くらい置いてから食べる方がうまいんです。思うにバナナが木の上で完熟したときには、もう次の世代に生命が移ってしまうんでしょうね。」
日本までの輸送機関は、ふつうエクアドル物が20日、フィリピン物が5日、台湾物が4日かかる。
バナナの熟成には、暖めるのと冷やすのと両方の作業が必要。最初は暖め、次に冷やす。今日の近代的なむろでも、カートン箱に入れたまま暖めて冷やすという基本的な工程は昔と同じだ。そこへ、エチレンガスと湿気の注入が、新たに加わっている。エチレンガスの採用で、バナナの熟成度とはあまり関係なく、「まるでペンキを塗るように簡単に色付けができるようになった」という。
バナナの多様な使い方
今日でも、緑のみずみずしいバナナの葉は、もっともありふれた食器。30センチ四方ぐらいに切られたものが束ねられて、市場でも売られている。
バナナの葉にくるんだ魚や野菜を、たき火でむし焼きにする調理法もある。葉は、壁紙代わりの建材にもなるし、雨具の代用もする。
茎の繊維は、織物やパルプ材に利用する土地もある。
東南アジアの人々は、バナナについて、細かく具体的な知識をもっている。濃い赤紫の蕾は、野菜の煮物に加えられるし、腐ったバナナの幹にだけ生える食用キノコ「カブテンサギン」もある。
隊では、地場バナナが、焼き鳥のように炭火のグリルの上でこんがりと焼かれ、道端で売られている。焼きいもと似た味。
豊かになってバナナを食べなくなった日本人、バナナを増産して貧しくなったフィリピン人
つましく生きようとする日本の市民が、食物を作っている人々の苦しみに対して多少とも思いをはせるのが、消費者としてのまっとうなあり方ではあるまいか。
私たちは豊かでかれら(プランテーションに勤めている農家、労働者)は貧しく、だから豊かな私たちがかれらに思いを及ぼすべきだというのではない。作るものと使うものが、たがいに相手への理解を視野に入れて、自分の立場を構築しないといけない。
Hiroのメモ書き
ぼくは現代のプランテーションで働く人がどんな風に生きているか残念ながら知りません。
ただ、この本を読んで過去をちゃんと知ってから食べるバナナの味とそうじゃないときの味には違いがあるのではないかと思います。
すごく深いところまで調査されていて、衝撃を受ける部分が結構多かったです。
バナナ以外でも、普段食べているものに対して、もっと生産者の方への感謝の気持ちを込めて食べないといけないといけないですね。